翻訳と辞書
Words near each other
・ HAOKムラドスト・ザグレブ
・ HAPPINESS (GRASS VALLEYのアルバム)
・ HAPPINESS (ラジオ番組)
・ HAPPINESS (大黒摩季のアルバム)
・ HAPPY (BUMP OF CHICKENの曲)
・ HAPPY (大原櫻子のアルバム)
・ HAPPY BIRTHDAY (バンド)
・ HAPPY BIRTHDAY♪KYUSHU PASS
・ HAPPY BIRTHDAY〜愛が生まれた〜
・ HAPPY BIRTHDAY~愛が生まれた~
HAPPY END (アルバム)
・ HAPPY END PARADE〜tribute to はっぴいえんど〜
・ HAPPY END PARADE~tribute to はっぴいえんど~
・ HAPPY SWING 15th Anniversary SPECIAL LIVE 〜We Love Happy Swing〜 in MAKUHARI
・ HAPPY TIME TOUR '98〜黒頭巾のなすがまま〜
・ HAPPY TIME TOUR '98~黒頭巾のなすがまま~
・ HAPPY! (アルバム)
・ HAPPY! (テレビ番組)
・ HAPPY!メディアな人々。
・ HAPPY★BEST


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

HAPPY END (アルバム) : ウィキペディア日本語版
HAPPY END (アルバム)[はっぴぃ えんど]

HAPPY END』(ハッピィ・エンド)は、1973年2月25日に発売されたはっぴいえんど通算3作目のスタジオ・アルバム
== 解説 ==
本作について後に大瀧詠一が語るところでは、ファースト・ソロ・アルバム『大瀧詠一』〔大瀧詠一大瀧詠一1972年11月25日発売 BellwoodKING LP:OFL-7〕のレコーディングのためのリハーサルの最中にスタジオを訪れた高田渡三浦光紀からアメリカに遊びに行くことを誘われたとの旨を伝え、大瀧も同行しないかと話を持ちかけたのがそもそもの発端だったという。大瀧ははっぴいえんどの残る3人に誘いをかけた。そこへ、アメリカに行くならアルバムをレコーディングしないかという話が三浦から持ちかけられた。三浦は、すでに解散を決めていたはっぴいえんどの最後のアルバムを実現するには、アメリカでのレコーディングしかないと考えていた。アメリカの主要なレコーディング・スタジオにすでに設置されていた16トラックのレコーディング機材に接することでそのノウハウを知り、アメリカのスタジオでのレコーディングを体験することが三浦自身のみならずメンバーにも何らかの収穫をもたらすに違いないという思いも理由の一つだった。大瀧、細野晴臣鈴木茂はアメリカに赴くことに興味を示し、レコーディングすることにも同意したが、松本隆だけは解散の決まったグループのレコーディングに当初は抵抗した。結局、ドラムスに専念することと鈴木の作品以外には歌詞を提供しないという条件付きで、他の3人の意向に沿って了承した。しかし、現地に到着したところ、大瀧はソロ作の制作直後ということもあり、作品を用意出来ずにいた。その事実を打ち明けられた松本はマネージャーだった石浦信三に連絡を取り、国際電話で歌詞を聞き取らせ、大瀧に提供することになった。
1972年10月4日、はっぴいえんどのメンバー4人とベルウッド・レコードの三浦ほか5名のスタッフは羽田を発ち、ハリウッドに到着。翌6日にはレコーディング・スタジオのサンセット・サウンド・レコーダーズに入った。レコーディングの途中にはビーチ・ボーイズペット・サウンズ』も同じスタジオでレコーディングされたことがわかり、さらにグループ結成の発端となったバッファロー・スプリングフィールドアゲイン』もレコーディングしたスタジオだったことも後に判明した。「ブルーバード」をきっかけにスタートしたはっぴいえんどが、同作がレコーディングされたスタジオで最後のアルバムをレコーディングするという事実に大瀧は、バッファロー・スプリングフィールドとの浅からぬ因縁を思ったという。現地に到着した時はそれなりに明るさを振りまいていたメンバーもスタジオ入りした途端、寡黙になり交わす言葉も減った。もとよりメンバーのいずれもが無表情な上にギクシャクとした雰囲気が漂うものだったという。そうした様子が、エンジニアを務めたウェイン・デイリーには異様な光景に見えたらしく、ウェインは「先ず笑え、笑わなかったら俺は降りる」と、メンバーに笑うことを何度も要求したという。とは言え、自らが演奏し、耳にした楽器の鳴りや音の響きは、乾燥した空気や電圧など、土壌や生活環境の差異を強く感じさせるもので、日本での体験とは明らかに異なり、メンバーを高揚させたという。そうした要因が演奏やサウンド展開に大いに反映されることになった。「非常にもう醒めた状態でも、とにかくアメリカで楽しみたいんだっていうのが半分くらいあった」という鈴木が先導する形で、やがてレコーディングは次第に順調に進み始めた。ベーシック・トラックを録り終えるのと前後してカービー・ジョンソンを中心とするブラス・セクションと、リトル・フィートローウェル・ジョージビル・ペインが参加。さらに現地コーディネーターのキャシー・カイザーとのつながりからヴァン・ダイク・パークスが突然スタジオに現れ、はっぴいえんどと「さよならアメリカ さよならニッポン」を共作する。ダビングや歌入れの際、歌の意味を伝えるために歌詞の英訳が用意されていたが、原詞の細かなニュアンスまで十分に伝わるまでに至らず、言語の壁が立ちはだかるという現実にぶつかるといったこともあったという。すべてのレコーディングを終えた後、ミックス・ダウンはエンジニアのウェイン・デイリーに任せ、サンフランシスコに移動。当地の日系人向けテレビ局KEMOのテレビ番組に出演し、10月25日帰国した〔。
後に大瀧は、「さよならアメリカ さよならニッポン」のレコーディングを踏まえ、「アメリカ行って、ヴァン・ダイク・パークスはさ、僕らのレコーディングをブラッと見にきたのね。僕が2ビートのカントリーっぽい曲を弾いていたら“Oh I like it! I like this song”とか言って急に独演会が始まった。真珠湾がどうしたとか、いろんな事を言いながらさ、酔っ払って。で、ドラムのパターンを作り始めた。でもね、彼のやっていることは形は違っても、あくまでポップスなのね。だって、ヴァン・ダイク・パークスはブライアン・ウィルソンがやってる現場を見ているわけだし、ブライアンはフィル・スペクターを、スペクターはリーバー&ストーラーを見てきたんだよ。ここで、僕の聴いてきた音楽が全部つながったの、一線に。確信したんだよ。これまでの蓄積だったら、僕も負けないからね。自信を深めちゃったよ。で、帰りにハワイに寄った時に細野と同じ部屋で“今まで聞いてきたバッファローや60'sポップスやそれらが全部一線でつながったよ”って言ったら“それは大切な事だ”って言われて。だから、音楽の旅という意味では、もう来る事ないなあって思った。事実これ以降、行っていない。海外録音は必要ないと、この時に決めたんだ。帰ってきてから、スタジオ持たないといけないなと強く感じた」と振り返っている。1972年12月に実質的活動を終えていたバンドにとってラスト・アルバムとなった本作は、メンバーそれぞれの方向性が明確になったオムニバス・アルバムの趣を持った作品となった。B-4「外はいい天気」は後年、日本生命のCMに使用された。
アルバム・ジャケットは“WORK SHOP MU!!”が担当したが〔桑沢デザイン研究所を前年の1969年に卒業した3名によって1970年に結成されたデザイン集団。メンバーは眞鍋立彦、奥村靫正、中山泰。“MU!!”という名前は眞鍋のMと中山のあだ名だったウータン(Utan)のUの2人のイニシャルをとってつけられた。創設当時は“WORK'SHOP MU!!”と表記していたが、まもなく“WORKSHOP MU!!”に変更された。眞鍋と中山の2人で始めてすぐに、奥村が加わり3人で活動するようになった。正式メンバー3人のほか、スタッフには柳沢信二や山崎満、眞鍋の妻の美佐子(ミーコ)。野上眞宏もメンバーではなかったが、身近にカメラマンがいなかったため、次第にメンバーのような存在になっていった。“MU!!”の工房は青山の池田屋ビル7階にあったが、1971年8月に埼玉県狭山市のジョンソン基地近くの通称“アメリカ村”にメンバー全員が移住した。最初はインテリアの商社と契約していて、全国に販売するための商品の企画を手がけていたが、徐々に日本のロック・ミュージックの数々のアルバム・デザインに携わっていった。1976年正式解散。〕、ベルウッドからシングル・ジャケットとの指定があったため、シンプルなジャケットにしようと決まったという。初めに写真はどうするかという話が出たが、この時点で既に実質的に解散していたメンバーの精神状態を考えると、全員揃っての撮影には問題があると思われることと、前作『風街ろまん』〔『風街ろまん1971年11月20日発売 URC LP:URG-4009〕での撮影時に未使用のロケ写真が多くあること、さらに前回の写真のセレクトに不満があったことなどから、新たな撮影は見送られた。表ジャケットの抱き合う男女の写真は1947年のアメリカの家庭雑誌『グッド・ハウス・キーピング』掲載の広告からの引用で、40~50年代ハリウッド映画のラスト・シーンを連想させる、ラスト・アルバムを意識したもの。レコード中袋の写真は、写真家の野上眞宏がプラスチック製のレンズがついたブローニーサイズのカメラ“フジペット”〔野上の妹が小学生のときに買ってもらったもので、購入から既に12~13年経過していたのでレンズが曇っていたため、却って面白い効果が得られたことから野上は当時、様々な撮影で使ったという。〕で撮影したもので、メンバーの背景に写っているのは“MU!!”が借りていたハウス。後に野上は、写真には満足しているが『風街ろまん』〔の時の撮影だったので、メンバーの髪型やファッションが3枚目の時点とは合っていないため、写真家としては無理をしてでも新たに撮影しておくべきだったと後悔したという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「HAPPY END (アルバム)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.